西暦 | 後漢年号 | 関連事項 | 備考 |
二一〇 | 建安十五 | 曹操は令を出し、人物任用にあたっては才能のみを重視することを宣言。 曹操は[業β]に銅雀台を築く。 劉備は京におもむいて孫権と会見し、荊州の借用を申し出る。 周瑜は、蜀の経略をもくろむが、その準備中に死去。 孫権は、歩隲を交州刺史に任ずる。 士燮兄弟が呉の支配を受け入れ、嶺南の地は呉に属することになる。 | |
二一一 |
建安十六 正月 三月 九月 |
曹丕が五官中郎将となり、その下に官属が置かれる。 曹操は鍾ヨウを張魯の討伐に向かわせる。 馬超・韓遂らは潼関を固めて曹操軍の関中進出に抵抗する。 曹操みずから韓遂らの討伐に向かう。 曹操は関中の地を平定する。 劉璋は、法正の意見を入れて、劉備を益州に迎え入れる。 | |
二一二 |
建安十七 十月 |
孫権は石頭城を築き、その役所を秣陵に移し、秣陵を建業と改名する。 曹操は孫権討伐の兵をおこし、濡須へ軍を進める。 荀 ![]() 劉備は劉璋に対して軍事行動をおこす。 |
この歳、阮[王禹]が死去する。 |
二一三 |
建安十八 正月 五月 九月 十一月 |
曹操は濡須から兵を引く。 天下十四州を合併して九州(豫・冀・ ![]() 曹操は魏公となり、九錫を受ける。 馬超は冀城を占領したが、まもなく楊阜らに破られて、張魯のもとに身を寄せる。 魏国は尚書・侍中・六クの組織をととのえ、荀攸を尚書令に任ずる。 |
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二一四 |
建安十九 五月 七月 十一月 |
夏侯淵は、略陽で韓遂を破る。 諸葛亮は、関羽を荊州に留めると、張飛・趙雲とともに蜀に、入り劉備軍の増援をなす。 劉備は、落城の包囲戦中に ![]() 劉璋が劉備に降伏する。 劉備は益州牧の職務にあたり、諸葛亮は軍師将軍となる。 魏の尚書令荀攸が死去する。 曹操は、献帝の伏皇后を幽閉し二人の皇子を毒殺する。 |
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二一五 |
建安二十 正月 三月 七月 八月 十月 十一月 |
曹氏が皇后に立てられる。曹氏は曹操のむすめ。 曹操は、張魯討伐の兵を動かす。 河池まで軍を進めてテイ王の竇茂を滅ぼす。 西平・金城の武将たちが、韓遂を殺して曹操に降る。 張魯は、曹操の軍を避けて巴中へ逃げる。 孫権は十万の兵で合肥を包囲する。 その撤退に際し、張遼の急襲を受け、孫権は危うく難をのがれる。 魏は、軍功を賞するため、名号爵十八級を置く。 張魯が曹操に降る。 孫権は劉備に荊州の返還を要求。 劉備がそれを拒否すると、呂蒙・魯粛らの軍を荊州に派遣。 曹操が漢中に進出してきたことから、劉備は孫権に和を請う。 孫権と劉備が荊州を二分して支配することになる。 |
この歳、皇甫謐が生まれる。(〜二八二)。 |
二一六 |
建安二十一 五月 八月 |
曹操が魏王となる。 鍾ヨウが魏の相国となる。 曹操が中尉の崔[王炎]を殺す。 匈奴南単于の呼廚泉が魏に来朝する。 呼廚泉はそのまま[業β]に留められる。 |
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二一七 |
建安二十二 二月 三月 |
曹操は、孫権討伐のために濡須まで軍を進める。 夏侯惇。曹仁・張遼らを居巣に留めて、軍を引く。 孫権は使者をおくって、曹操のさしずを受けることを申し入れる。 曹丕が魏国の太子となる。 劉備は張飛などをやって漢中に軍を進める。 曹操は曹洪をおくってこれに対抗させる。 |
この歳、はやり病があり、王粲(一七七〜)・応[王昜]・劉[木貞]・徐幹らが死亡。 傅玄・賈充が生まれる |
二一八 |
建安二十三 正月 三月 四月 九月 |
耿紀・韋晃らが許昌においてクーデターをおこし、曹操を誅殺しようとするが、失敗に終わる。 曹洪が呉蘭をうち破り、張飛・馬超は逃亡する。 代郡・上谷の烏丸や無臣テイらが反乱をおこし、曹操は息子の曹彰にその討伐を命じる。 曹彰は代郡の烏丸を伐って勝利を収め、鮮卑の大人軻比能が投降。 北方が安定する。 劉備は平陽関において夏侯淵・張 ![]() 曹操はみずから軍を率いて長安に進出。 |
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二一九 |
建安二十四 正月 五月 七月 十二月 |
曹仁が宛を攻めおとして高音を斬る侯音を斬る。 劉備は、定軍山に本拠を定め、夏侯淵を破る。 曹操は斜谷まで兵を進めて劉備と対峙したが、やがて軍を引く。 劉備は漢中を確保する。 劉備はみずから漢中王を称し、劉禅を王太子に立てる。 関羽は、曹仁を樊城に攻め、于禁を捕虜とする。 魏諷がクーデターをはかり、曹丕に誅殺される。 相国の鍾ヨウが連座して官を免ぜられる 孫権は、関羽討伐の軍を動かし、呂蒙が関羽の根拠地の南郡を占領する。 関羽の軍はばらばらになる。 関羽と関平は捕らわれて斬られる。 曹操は上表をして、孫権を驃騎将軍に任じ、荊州牧の職務にあたらせる。 |