西暦後漢年号関連事項備考
二二〇

















建安二十五

正月


延康元

三月







七月


献帝 [建安二十五] [延康元]

曹操が洛陽において死去、年は六十六。
曹丕が魏王の位を継ぐ。

延康と改元する。

賈[言羽]が太尉に、華[音欠]が相国に、王朗が御史大夫になる。

曹丕は弟の曹植を安郷侯に貶し、曹植グループに属する丁儀一族を皆殺しにする。

陳羣が「九品官人の法」を定める。

蜀の武将の孟達が魏に降り、魏は房陵・上庸・西城を手に入れる。

この歳、仲長統が死ぬ(一七九〜)。
西暦備考
二二〇














文帝 [黄初元]

十月 後漢の献帝は魏に禅位を行い、曹丕が帝位につき、黄初と改元する。





十二月 洛陽に宮殿をいとなみ、魏は洛陽に都を定める。








十一月 献帝は山陽公となる。



二二一


































黄初二

正月 孔羨を宗聖侯に任じ、孔子の祀をつがせる。










六月 曹丕が甄夫人を殺す。







八月 刑貞をつかわして、孫権を呉王に封じ、九錫を加える。



十一月 涼州刺史の張既が、異民族の反乱を鎮め、河西の地を安定させる。

先主劉備 [章武元]





四月 劉備が帝位につき、章武の年号を建てる。
諸葛亮を丞相に、許靖を司徒に任じる。

五月 呉氏を皇后に、劉禅を皇太子に立てる。




七月 劉備は呉に向けて軍を動かす。
その出発に際し、張飛が部下に殺される。





































八月 孫権は、魏に使者を送って臣と称し、于禁らを送り返す。
鄂を武昌と改称し、武昌城を築く。






 
二二二






















黄初三

二月 [善β]善・亀慈・于ゥ王の使者がやってくる。
これにより西域との関係が復旧し、西域に戊己校尉置かれる。

閏六月 孫権に息子を人質としてさしだすよう要求。

九月 孫権が言を左右にして要求に応じないため、呉に兵を進める。







章武二

二月 劉備は巫峡から夷道まで軍営をつらね、呉と対峙する。




閏六月 夷陵で陸遜に大敗し、劉備は白帝城に逃げかえる。








十一月 呉との外交関係が修復される。

孫権 [黄武元]








閏六月 陸遜が蜀の軍を破る。






十月 呉は黄武の年号を建てる。

十一月 蜀との外交関係が修復される。

この歳、杜預が生まれる(〜二八四)。
二二三





















黄初四


二月 濡須で呉軍に敗れ、兵を引く。










八月 鍾ヨウを太尉に任ずる。





先主劉備 [章武三]
後主劉禅 [建興元]




四月 劉備が永安で逝去。

五月 後主劉禅が即位し、建興と改元する。
諸葛亮が丞相として蜀の政治を執る。
張氏を皇后に立てる。




十月 芝を使者として呉におくり、友好関係を固めさせる。

黄武二


二月 朱桓が曹仁の軍を濡須で破る。

















この歳、ケイ康が生まれる(〜二六二)。
二二四
















黄初五

四月 太学を建て、五経による課試の法を定め、博士を置く。
曹丕は、呉の討伐の軍をおこす。

九月 曹丕みずから広陵まで進む。
呉に敗れて兵を引く。






建興二

四月 呉と同盟関係を結ぶ。













黄武三

四月 張温を使者として蜀におくり、公式の訪問をさせる。



九月 徐盛が「疑城」を築いて魏を驚かせ、魏軍を破る。
キエンが官吏の粛清をくわだてたが、反対派のために自殺においこまれ、まきぞえをくった張温も失脚する。

 
二二五




















黄初六

二月 陳羣が鎮軍大将軍となり、また司馬懿は撫軍大将軍となって許昌の守りにあたる。

三月 并州刺史の梁習が鮮卑の軻比能を破る。

六月 曹丕はふたたび呉討伐の軍を動かす。





十月 広陵にまでいたるが、戦果のないまま軍を引く。

建興三









六月 諸葛亮は、南中に軍を進め、孟獲をくだし、[シ眞]池にまでいたる。
益州・永昌・[爿羊]柯・越スイが蜀の勢力下に入る。





黄武四









六月 顧雍を丞相に任じる。









この歳、鍾会が生まれる(〜二六四)。
二二六





















黄初七

五月 文帝曹丕の病気が重態になり、曹真・陳羣・司馬懿に後事を託す。
曹丕が逝去し、曹叡が帝位につく。これが明帝。

八月 太守の文聘は守りを固めて呉軍を撃退させる。


十二月 鍾ヨウを太傅に、曹休を大司馬に、曹真を大将軍に、華[音欠]を太尉に、王朗を司徒に、陳羣を司空に、司馬懿を驃騎大将軍に任ずる。

建興四





















黄武五








八月 孫権は、魏の大喪に乗じて江夏郡を攻め取ろうとするが魏軍に敗れる。









この歳、交趾太守の士燮が死に、呉は南方の支配を強化する。

王弼が生まれる(〜二四九)。
二二七












明帝 [太和元]




四月 経済的な混乱から、ふたたび五銖銭の使用が許可される。

十月 焉耆王がその子を使者としてつかわし、来朝する。

建興五

三月 諸葛亮が漢中へ軍を進める。









黄武六












 
二二八






















太和二

正月 司馬懿は新城を攻め、蜀に内通しようとした孟達を斬る。







八月 曹休は、呉の周魴の誘いにのり石亭に進軍し、陸遜に敗れる。
曹休は、賈逵の援軍で生還する。






建興六

正月 諸葛亮が関中へ出て[示β]山まで兵を進め、天水・南安・安定の諸郡は魏に叛いて蜀につく。
馬謖が諸葛亮の指示を守らなかったため、蜀軍は街亭で敗れ、軍を引く。







十二月 諸葛亮は、散関から兵を出して陳倉を包囲するが、兵糧がつきて兵を引く。

黄武七











八月 周魴が、いつわって魏に降伏を申し入れて曹休をさそいこみ、陸遜が石亭で曹休を打ち破る。






この歳、公孫淵が公孫恭から遼東太守の地位を奪い取る。
二二九


























太和三


















十月 陳羣・劉劭らに命じ、漢の法律を簡約にした新律を制定させる。

十二月 大月氏王の波調から使者が来て、波調を親魏月氏王に任ずる。

建興七


 諸葛亮は陳戒をおくって武都・陰平二郡を攻めさせ、みずからも建威に出て、二郡を平定する。



















黄武八
大帝孫権 [黄龍元]







四月 孫権はみずから皇帝の位につき、黄龍と改元する。これが呉の大帝。
孫登を太子に立てる。

九月 孫権は兼業に遷都をし、太子孫登と尚書の役所を武昌に留める。









この歳、趙雲が死去する。


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