西暦後漢年号関連事項備考
二〇〇













建安五






四月




十月

曹操は劉備を伐って下[丕β]をおとし、関羽をとりこにする。

劉備は袁紹のもとに身を寄せる。

やがて劉備は、袁紹のもとを離れ、汝南へゆく。

孫策が丹徒において刺客のために殺される。
後事を弟の孫権に託す。

曹操は、上表して孫権を討虜将軍に任ずる。

袁紹の軍は、曹操の攻撃を受けて壊滅する。

この歳、鄭玄が死ぬ(一二七〜)。
二〇一




建安六




曹操は汝南を攻め、敗れた劉備は劉表のもとに身を寄せる。



この歳、[言焦]周が生まれる(〜二七〇)。

二〇二







建安七  五月







袁紹が死去。

曹操は袁紹の息子の袁譚と袁尚を攻める。





この歳、
国から象が献上される。
姜維が生まれる(〜二六四)。

二〇三







建安八


八月




袁譚と袁尚が仲たがいをし、互いに攻撃しあう。
袁譚は曹操の援助を求める。

曹操は劉表を攻め、西平まで軍を進める。

孫権は黄祖を討伐し、その帰途、豫章郡を平定する。

 
二〇四




建安九  八月




曹操は袁尚を破り、冀州を平らげる。

遼東の公孫度が死去し、息子の公孫康があとをつぐ。

 
二〇五







建安十  正月



四月



曹操は袁譚を青州で破って、これを斬り、河北の袁氏の故地を手中に収め、その地の名士たち、陳琳・阮[王禹]らを配下におさめる。

黒山の賊の張燕らが曹操に降伏する。



この歳、荀悦がが「申鑒」五篇を奏上する。
山涛が生まれる(〜二八三)。

二〇六







建安十一 三月







曹操は高幹を破り、并州を平定する。







この歳、済北・北海・阜陵・下[丕β]・常山・甘陵・済陰・平原の八国が廃止される。

二〇七














建安十二 八月


九月











曹操は、烏丸討伐のために柳城へ兵を進め、
白狼山において勝利を収め、トウ頓を斬る。

公孫康が袁尚・袁煕の首を斬って、曹操に差し出す。










この歳、劉備は、襄陽の隆中に諸葛亮を訪ねて彼を参謀として迎える。

長く南匈奴にとらわれていた蔡[王炎](蔡文姫)が中原にもどってくる。

二〇八






























建安十三

六月


七月






















十二月


孫権は、黄祖を破ってその首を斬る。

三公の制度をやめ、丞相と御史大夫との官を復活し、曹操みずから丞相となる。

曹操は、軍をおこして劉表を攻める。

孔融が曹操の意に逆らって死刑に処せられる。

劉表が死亡すると、その息子の劉[王奇]と劉[王宗]とが反目し、劉[王宗]は、荊州を挙げて曹操に降る。

劉備は、荊州より逃亡し、当陽の長坂で敗北を喫しながら、夏口にたどりつく。そこで呉の使者の魯粛と会い、呉と協力関係を結ぶ。劉備の使者として諸葛亮が柴桑におもむき、孫権と会見する。

曹操は呉に書翰をおくって降伏をすすめる。
張昭らが曹操への帰順を主張するが、孫権は、魯粛・周瑜らの意見を用いて抗戦を決意。
周瑜は、赤壁において曹操の軍を破る。

曹操は、江陵・襄陽に兵を留めて北にもどる。

周瑜・程普らが、江陵を守る魏の曹仁を攻める。

孫権は、みずから合肥を包囲し、張昭には九江の当塗を攻撃させたが、戦果なし。

 
二〇九









建安十四

七月







孫権は合肥から軍を引く。

曹操が芍陂に屯田を開き、張遼に合肥の守備を命じる。
曹仁は、周瑜の包囲をうち破れず、南郡を放棄して逃亡する。
かわって周瑜が南郡太守となる。

孫権は、その妹を劉備の妻とする。

この歳、荀悦が死去する(一四八〜)。


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