西暦後漢年号関連事項備考
一六八


















建寧元

正月




五月

八月

九月







霊帝 [建寧元]

竇武が大将軍に、陳蕃が太傅になる。

劉宏が河間から迎えられて即位し、改元を行なう。これが霊帝。ときに歳は十二。

劉矩が太尉となる。

劉寵が司空となる。

陳蕃と竇武とは宦官勢力の一掃をはかるが、かえって宦官が曹節を中心にクーデターをおこし、陳陳蕃・竇武・尹勲・劉瑜・馮述らを殺す。劉淑・魏朗らも自殺。

胡広が太尉に、劉寵が司徒に、許栩が司空になる。

 
一六九

























建寧二





四月

六月


七月

九月










十一月

災異がしばしばおこり、張奐は、それにかこつけて党錮の禁をゆるめるよう主張して上疏。
また謝弼が封事を行ない、陳蕃を称賛し、宦官勢力をおさえるよう主張する。いずれも用いられず。

謝弼は獄死する。

劉寵が太尉に、許訓が司徒に、劉囂が司空になる。

が東羌勢力を平定する。

丹楊の山越が反乱をおこすが、太守の陳寅がこれを撃破する。

曹節の上奏により、虞放・李膺・杜密・朱寓・荀翌・テキ超・劉儒・范滂らに"党人"として逮捕令が出される。

李膺をはじめ、党人として難に死んだ者が百余人、関係者は禁錮、妻子は辺地に強制移住させられる(第二次の党錮事件)。

郭禧が太尉となる。

 
一七〇






建寧三 四月

八月



聞人襲が太尉となる。

橋玄が司空となる。

鬱林太守の谷永が烏滸民たち十余万人を帰順させる。

 
一七一










建寧四 正月


三月

四月

七月



霊帝は元服をし、天下に大赦を行なうが、"党人"だけは釈さず。

李咸が太尉に、橋玄が司徒になる。

が司空となる。

宋氏が皇后に冊立される。

宗倶が司空に、許栩が司徒になる。

 
一七二










建寧五

熹平元 五月

六月

十一月


十二月

霊帝 [建寧五] [熹平元]

熹平と改元を行なう。

竇太后が死去。

会稽の許生が宗教的反乱をおこし、陽明皇帝と名のる。臧旻・陳寅らがこれを討つ。

袁隗が司徒となる。

 
一七三





熹平二 二月

五月

七月

楊賜が司空となる。

が太尉となる。

唐珍が司空となる。

 
一七四













熹平三 正月

二月




八月

十二月




夫余国から使者が来る。

陳耽が太尉となる。

孫堅が兵をおこし、州郡の兵と協力しつつ許生の討伐を行なう。

臧旻・陳寅が許生を破り、これを斬る。

鮮卑が北地郡へ侵攻、太守の夏育がこれを破る。

許訓が司空となる。

この歳、皇甫規が死去する。(一〇四〜)
一七五











熹平四 三月



四月







諸儒に命じて五経の校定を行なわせ、蔡がこれを書して石に刻し、太学の門外に立てる(すなわち喜平石経)。

鮮卑が幽州に侵攻する。







この歳、于王の安国が拘弥を攻めて、その王を殺す。

孫策(〜二〇〇)・周瑜(〜二一〇)が生まれる。

一七六












熹平五 五月

閏五月




六月

七月

十月

許訓が太尉となる。

永昌太守の曹鸞が上書をし、党人の禁錮をゆるめるように主張。
霊帝は腹を立て、かえって党人に対する取締りを強める。

劉逸が司空となる。

劉寛が太尉となる。

楊賜が司徒となる。

この歳、鮮卑が
また幽州に侵攻。
一七七










熹平六



七月

八月


十二月

このころ、蔡がしばしば封事を行ない、政治軍事全般について改革を行なうよう主張するが、聴かれず。

陳球が司空となる。

漢の軍は、三方向から塞外に出て、鮮卑の討伐を行なうが、壇石槐のために大敗を喫する。

が太尉に、陳耽が司空になる。

この歳、王粲が生まれる。(〜二一七)
一七八






























熹平七

正月


二月




光和元 三月



四月






七月

九月

十月



十二月

霊帝 [熹平七] [光和元]

合浦・交趾の烏滸蛮が反乱をおこし、九真・日南まで混乱が広がる。

袁滂が司徒となる。

鴻都門学が設置されるが、士大夫層には人気なし。

光和と改元。

が太尉となる。

が司空となる。

しばしば災異がおこり、その災異を消すため、楊賜は佞臣を除くようにと建言。蔡もまた腐敗した権臣たちを除き、清廉な人物を用いるよう主張する。そのため、宦官たちの機嫌をそこねる。

そのため、蔡は朔方郡に配流される。

陳球が太尉となる。

袁逢が司空となる。

宋皇后が王甫の讒言を破り憂死する。

橋玄が太尉となる。

この歳、霊帝は関内侯などの官職を売りに出し、その利益を西園にたくわえる。

南匈奴単于の屠特若尸逐就が死去し、息子の呼徴が立つ。

一七九
















光和二 三月


四月




五月

十月




十二月

が司徒に、段が太尉に、張済が司空になる。

司隸の陽球が、王甫・段・淳于登・袁赦・封らの悪事を奏上、段は自殺する。

曹節らの圧力により、陽球は司隸を免職になる。

劉寛が太尉となる。

曹節の告発により、劉・陳球・劉納・陽球らは捕らえられて、獄死する。

巴郡の板楯蛮が反乱をおこす。

楊賜が司徒となる。

この歳、鮮卑が幽州・并州に侵攻。

仲長統(〜二二〇)・統(〜二一四)が生まれる。


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