西暦 | 後漢年号 | 関連事項 | 備考 |
一五五 |
永寿元 二月 夏 秋 |
桓帝 [永寿元] 太学生の劉陶が上疏をし、奸臣を除き、朱穆・李膺らを用いるようにとの意見を述べるが、桓帝は聞かず。 韓が司空となる。 南匈奴の左台耆・且渠伯徳らがそむく。張奐がこれをしずめる。 |
この歳、曹操が生まれる。(〜二二〇) |
一五六 |
永寿二 七月 | 鮮卑の壇石塊が雲中に侵攻。李膺を度遼将軍に任じて、これを鎮めさせる。 公孫挙・東郭竇らが青・・徐の三州に侵攻していたのを、段が打ち破る。 |
この歳、張陵が死去。 |
一五七 |
永寿三 四月 十一月 |
九真郡の住民の朱達らが、異民族とともに反乱をおこし、九真郡の役所を攻める。太守の児式が戦死。魏朗がこれを破る。 韓が司徒に、孫朗が司空になる。 |
この歳、孫堅が生まれる。(〜一九一) |
一五八 |
永寿四 五月 延熹元 六月 七月 十二月 |
桓帝 [永寿四] [延熹元] 太史令の陳授が、日食にかこつけて梁冀の専横を非難する上陳を行なう。梁冀は陳授を捕らえて獄死させる。 延熹と改元を行なう。 胡広が太尉となる。 南匈奴の諸部がそろって反乱をおこし、烏丸・鮮卑とともに縁辺の諸郡に侵入。張奐がこれを破る。 |
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一五九 |
延熹二 七月 九月 十二月 |
梁皇后が逝去。 桓帝は宦官の力をかりてクーデターを発動。大将軍の梁冀は自殺、梁氏一族がみな棄市せらる。胡広・韓・孫朗らも梁冀の同調者として失脚。 皇后に氏が立てられる。 黄瓊が太尉に、祝恬が司徒に、盛允が司空になる。これ以後、宦官の専横がつのる。 羌族が隴西の金城塞に攻撃を加えてくる。段がこれを打ち破る。 |
この歳、天竺国より使者があった。 |
一六〇 |
延熹三 正月 閏正月 七月 |
梁皇后が逝去。 新豊侯の単超が死去。玉衣などを賜わり、盛大な葬儀を行なう。 西羌が焼何の有力者とともに張掖に侵攻、段がこれを破る。 盛允が司徒に、虞放が司空になる。 |
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一六一 |
延熹四 二月 四月 六月 七月 九月 十月 十一月 十二月 |
が司徒となる。 劉矩が太尉となる。 黄瓊が司空となる。 関内侯などの官位を売りに出す。 羌族が并州・涼州に侵攻。涼州刺史の郭は責任逃れのため段を獄に下す。 劉寵が司空となる。 天竺国から使者あり。 太山太守の皇甫規が願い出て、その討伐にあたる。 夫余王から使者あり。 |
この歳、劉備が生まれる。(〜二二三) |
一六二 |
延熹五 五月 八月 十月 十一月 |
長沙・零陵の不服従民が桂陽・蒼梧・南海の諸郡を攻める。 刺史や太守はみな逃亡する。 艾県の不服従民が長沙に侵攻。 零陵・武陵の異民族が反乱をおこす。 馮が車騎将軍に任ぜられて荊州の混乱を鎮める。 皇甫規は、宦官らの讒言により獄に下され、のちに釈放されて、引退する。 楊秉(楊震の子)が太尉となる。 |
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一六三 |
延熹六 五月 七月 十月 十二月 |
許栩が司徒となる。 桂陽で李研が反乱をおこす。 武陵の異民族の情勢も不穏。 桓帝は、広成で巻狩りを行ない、函谷関・上林苑へ御幸。陳蕃がそれを諫めるも聴かず。 周景が司空となる。 周景は、楊秉とともに上疏をし、宦官の一味の無能な役人たちを淘汰するように主張、五十余人が死刑あるいは免職になる。 皇甫規が匈奴中朗将に、張奐が度遼将軍になり、段が護羌校尉に復職。 尚書の朱穆が宦官の専横にいきどおり、彼らを政治の中枢にあずからせぬようにと上疏をする。朱穆は宦官勢力の圧迫で、まもなく死亡。 |
この歳、荀が生まれる。(〜二一二) |
一六四 |
延熹七 二月 七月 |
黄瓊が死去(八六〜)、会葬者は六、七千人に達する。 荊州刺史の度尚が、艾県・桂陽の反乱を平定。 |
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一六五 |
延熹八 正月 二月 五月 七月 八月 十月 十一月 |
桓帝は中常侍の左をつかわして、苦県で老子を祭らせる。 皇后が、郭貴人との勢力争いに敗れ、廃位されて憂死する。氏一族が誅殺される。 太尉の楊秉が死去(九二〜)。 荊州の兵朱蓋らが反乱をおこし、桂陽の胡蘭らとともに桂陽・零陵の役所を攻撃する。陳球・度尚らがこれを破る。 陳蕃が太尉となる。 全国の田地所有者に対し、その所有畝数に応じて税を課する。 竇皇后が立てられる。 劉茂が司空となる。 陳蕃がしばしば上言して、李膺・馮・劉祐らの無罪を主張する。 釈放された李膺は、司隸校尉となり、宦官勢力と対抗する。 中常侍の管覇をつかわして、苦県で老子を祭らせた。 韓が左一族の悪事を奏上、左は自殺。 |
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一六六 |
延熹九 正月 五月 六月 九月 十二月 |
荀爽が対策をたてまつり、後宮の規模を縮小するようにと主張する。 胡広が司徒となる。 桓帝は濯龍宮で老子をまつる。 張奐が中央に召し返されると、鮮卑・南匈奴・烏丸が塞内に侵攻。 周景が太尉となる。 宣が司空となる。 宦官の牢脩が上書して李膺らが太学生らと結び、党派を立てて政治を誹謗していると告発。 "党人"に対する逮捕令が全国に出される。逮捕の対象となった者が二百余人、ある者は捕われ、ある者は地下にもぐる。 皇甫規は自分も"党人"の一味だと名のり出たが、相手にされず。 |
この歳、大秦国王の安敦より使者があった。 |
一六七
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延熹十 正月 永康元 六月 十二月 |
桓帝 [延熹十] [永康元] 羌族が三輔に侵攻、張奐が討伐にあたる。 扶余王の夫台が玄菟郡に侵攻、太守の公孫域がこれを破る。 竇武が党人弁護の上疏をする。 党人たちを釈放し、永康と改元する。 党人たちは故郷に帰されて、終身禁固となる(これが第一次の党錮事件)。 桓帝(劉志)が逝去、歳は三十六。 竇后が皇太后として朝に臨む。 |